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未来芸術家列伝 IV : 未来と未知

 

たとえば今日あなたが、「もうすぐ明日がやってくる」と明日を待ち受けていたとする。しかしいくらワクワクと待っていても、実際に明日になれば、明日はもう明日ではなく、今日になってしまう。いったい明日はどこにいったのか?今日になって「やっと明日がきた!」と思っても、その明日は昨日あなたがワクワクと待っていた「明日」ではないのである(ゆえにワクワクは反転し「今日は明日の前日だから、だから怖くてしかたがない」ということも起こるというわけだ)。ゆえに未来はない。未来は実在し得ない。なぜなら、いつまで経っても「未だ来ない」ものこそが真の未来なのだから――さまざまな時点から発された未来像、誰かによって想像され、表象されることで実体化した諸々の未来を一網打尽にする、こうした原理的な物言い。誰もが知ってのとおり、いつの時代もNo Futureは存在した。実体化された輝かしい「希望」としての未来を、どこまでもすり抜ける未来が。

 

あらゆる未来についての言明は、所詮、その言明が発された特定の現在の利害、欲望の投影にすぎない。それはあくまで〈現在の延長にある未来〉である。あなたがたは自分たちの血筋が途絶えたときの未来も含めて未来として捉え、それを想定して行動しているだろうか。どんなにあらかじめ想定しようとも、「(それは)ない」と執拗に拒絶してくる未来。あなたがいまいるこの世界でいくら活発に行動し繁殖しようとも、それがまったく影響を及ぼさない未来の地点がつねに存在しうるのだ。この考えはわたしたちを独特な仕方で意気消沈させる。わたしたちより以前にまったく別の文明がここにあった、という意気高揚とは逆の方向で。メイヤスーの「祖先以前性」よりもむしろ「子孫以後性」を――ブラシエの言う「絶滅」という極点からすればそれ以前の中途半端な時制を――リアルに捉えねばならない。では、現在からは断絶した未来、つまり〈現在の延長にない未来〉とはいったい何なのか。たとえば、ラッセルの「世界五分前創造仮説」を裏返して「世界五分後創造仮説」としたときの、中空へと放り出される感覚。あるいは、無底へと絶え間なく急降下していく感覚。だまれ地球人!くたばれ現代人!いまある世界が完全に抹消され、わたしが亡霊としても微塵も残存しない地点で、わたしがここにいないことを基点として発せられる言明など、いったいどう捉えてよいのだろうか。

 

〈現在の延長にない未来〉は、まったき不連続性の想定である。しかし問題は、その場合の「未来」はほとんど「未知」というものと区別がつかないものとなり、それに還元されてしまうということだ。〈現在の延長にない未来〉の「未来」とは実のところ、「未だ来ない」ではなく「未だ知らない」という未知のことである。138億年前だろうと、10万年後だろうと、わずか数秒前だろうと、46億年後だろうと、未知という観点からでは等しく同じものとなる。現在の延長にない、人類という文明外の、それとまったく無関係な未来の時間を想定することは、地球から遠く離れたどこかの惑星で存在する宇宙人を想定することと些かも変わらない。つまりそこでは「未来」に固有のベクトル、時間性は失われ、むしろ方位喪失による飽和状態、無時間的な状態と区別がつかなくなるのだ。もしも本当に不連続であるなら、それをわざわざ「未来」と呼ぶ根拠はない。それが後にくるものであろうと前にあったものであろうと等距離だ(わたしたちが想像する終極と始源とは、なぜかおそろしく似かよっている)。ここに、原理的な未来批判への再批判のポイントがあるだろう。絶対的な未知性と化した未来からは時間が抜け落ち、「未だ知らない」はさらに、「決して知り得ない(が知り得ないこと自体は確定している)」という不可知性にまで近接してしまうのだ。

 

「未来に還元できない未知」は存在する、それは先述した時間的な方位喪失だ。では逆に「未知に還元できない未来」は存在するだろうか。未知から切り離された、まったく純粋な未来など、おそらく存在しない。未来を未知と完全に分離させることはできない、未来の主成分の9割は未知である。しかしにもかかわらず現代においては、テクノロジーによって未来が未知ではなくなる可能性がある。インターネット上の膨大な情報を人工知能が解析し、人々の振る舞いや選択をかなりの確率でコントロールするという「予測分析(Predictive Analytics)」なるものがそれだ。人間の行動に関していえば、未来を占める未知の領域の割合は、限りなく縮小されていくのかもしれない。やつらは未来人と宇宙人の見分けもつかないくせに(いや、むしろそれゆえにか)、こんな大それたことをやってのけやがる。それはある意味で〈実体化された未来〉の究極的な完成形だ。だがもしも、完全に未来から「未だ」という端緒が失われ、描かれる未来像とのあいだになんらズレがなくなるのであれば、未来はそもそも実体化するまでもないものと成り果てるだろう。

 

翻って考えれば、未知の「知」すなわち「知ること」とはいわば、何かに向かって「行く」ことである。未来の「来」すなわち「来る」という出来事は、そうした「予測」という知のコントロールの範囲を超えている。ひょっとすると、未来は既に来ているが、誰もそのことを知らないだけなのかもしれない。つまり「未来」は実は「既来」だった。「自分が知らないということは知っている」というかたちですら囲い込めない、自分が知らないとすら知らない/自分が知っているとすら知らない不確定な時間が、既にやってきているのではないか。たとえばここに、ある物体があるとして、それが本当にタイムトラベルで未来からやってきたものだとしよう。その物体は決して未来からきたものだと認められることはない。なぜなら、その物質的な組成がいかに現在のものとかけ離れていたとしても、それは「未来からきたもの」ではなく、端的に「未知のもの」だとされてしまうはずだから。既知と相補的な程度の未知では、絶えずメタ化する知を転落させることはできない。ちょうどブラッドベリの『火星年代記』で、やっとのこと地球から火星に辿りついた探検隊が、火星人と念願のファーストコンタクトを果たしたと喜んだのも束の間、「自分たちは地球から来た」とどんなに主張しても火星人から地球人(異星人)だとはまったく認められずに、単なる気の狂った火星人と扱われ皆殺しにされてしまうエピソードにも似て。

 

したがって、未来はどこにも到来しない――もしくは、未来は未知の仮面を被って、あたりかまわず既にそこらじゅうに到来している。というわけで、毎度遅ればせながら、わたしがかねてより他のユーザーたちと計画していた『未来芸術家列伝』の告知をしておこう(もうⅣになってしまっていて申し訳ない)。まだ仲間から確認がとれていないが、計画上では以前から進行中で現在も開催中であるはずだ。そこを訪れたあなたは、いつの時代でも存在しているNo Futureのいさぎよさを留保して、いま一度、先に足蹴にした醜悪で感傷的な〈実体化された未来〉ないし〈現在の延長にある未来〉の、何重にも屈折した瓦礫の山に立ち戻らなければならなくなる。わたしはあなたがたに、宇宙人襲来の危機を伝えるために、時空を超えて2048年からやってきた。しかしやつらは巧妙だ。わたしは2018年に飛ぼうとしたのに、やつらに掴まってアルコール漬けにされてしまい、代わりに2017年に飛ばされてしまったのだ。わたしは、No Futureのポテンシャルを引き出すことで真のパトリオティズムに至らんとする理論的アル中だ。No Futureの叫びは、ただひとつの現在に立脚し、生の無根拠性に惑溺している限りでは、革命的な言明となり得ないのだ。それだから、端的な無と峻別されうる不在が是が非でも必要であるばかりでなく、現に未来を打ち消しつつ、自身が打ち消される未来それ自体とならねばならない。
 

[S.T.]


 

 

Texts

IV : 未来という資源

IV : 現在の終り

IV : 作者の制作

IV : 未来と未知

上記が収録されていた『未来芸術家列伝 IV』(リーフレットA2サイズ)のデータ

・表面 jpg(Google ドライブ)

・裏面 jpg(Google ドライブ)

縮尺によっては文字が鮮明に見えます

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