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未来芸術家列伝 IV : 未来という資源

 

来とは何だろうか。世界的に共有されている未来への不安感がポピュリズムの台頭となって現われている現在、「未来」という観念の実体を考えることは重要な作業だろう。未来に対する不安は、未来の確率的な予想から自動的に導かれるものではない。未来に不確定性がつきまとう限りにおいて、不安は無限に膨らみうる。だが同じように、希望も根拠なしに無限に膨らませることができるだろう。功利的な観点から未来を見た場合、そこにはどのよう可能性があるのだろうか?

未来は、過去のデータを詳細に検証した上で確率論的に予測されなくてはならないと考えられている。しかし、予測される未来と実際にやってくる未来は同じものではない。たとえば、宝くじを考えてみる。宝くじの結果は確率論に完全に決められている。その還元率は5割にも満たない。つまり賞金5億円を10億円で売っている計算になる。しかし、単に5億円を10億円で売っているのだとしたら、そもそも誰も買わないだろう。くじを買う人はおそらく、未来の希望や夢を買っているのである。くじを買った人が夢見るお金の総額は、実際に賞金として還元されるお金の総額より多い。

もちろん結果発表によって、その夢や希望は収斂してしまうが、過程がすべて結果に還元されるわけではない。たとえば一ヶ月前に当選がわかって一ヶ月後に1億円を入手した場合と、何の前触れもなく不意に1億円を手にした場合。入金前の一ヶ月だけに限って前者と後者の生活を比較すると、前者の方がより幸福な一ヶ月を生きる可能性が高い。その期間をさらに10年、50年にしていくと有限な寿命にとってより大きな違いとなっていく。死後、天国に行くと信じて過ごす一生か、地獄に行くと信じて過ごす一生を比較すると、前者の方が大きな幸福感を得られる可能性が高い。そして幸福感が生命活動の維持にとってさまざまな良い効果をもたらすことは医学的にも知られている事実だ。宗教は未来を資源として活用し、信者に利益を還元しているとも言える。


よく言われる「緩やかなインフレ」が健全な経済状態であるとすれば、信用創造されるお金の総額は、実際の商品の総額よりも多い状態を維持していくのがいいということになる。お金は信用創造という過程でこの世に生まれる。それは未来への信用を担保にして創造される。つまり、お金は未来からやってきた物体なのだ。お金とは、未来の商品に交換できるから価値があるのではなく、それ自体が価値であり、現存する未来である。お金の完全な物神化は、根拠の無い無限の希望、はじけることのないバブル経済を生むだろう。

信仰可能性(それを実際に信じることができる)の条件を実現可能性(それが実際に起こる)の条件といったん切り離して、それ自体の経済性、つまりその有用性、リスク、コストで考えると未来資源の活用法は大きく広がるだろう。確かに、未来や過去は空虚な表象にすぎないと思えるかも知れない。しかし正確に言えば、未来と過去への信仰こそが表象を可能にする条件である。未来と過去こそが、わたしたちを決定論的な現在から引き離し、そこに自由な精神もたらし、お金に価値をもたらし、言葉に意味をもたらすものなのだ。「言葉には意味が無い」ことを言葉で表現することが無意味であるように、未来など予測できないと言うことは無意味である。

そうであるならば、空虚な未来の資源をめぐる争いにアートも参戦しなければならない。ギャンブルや投資は法で制限され、お金の創造は国に独占されている。途方もない未来という資源を、国家や宗教だけが独占している状況を打ち破らなければならないだろう。お金や宗教に変わる未来を見つけ出すことはアートの重要な課題なのだ。アート・ユーザー・カンファレンスは、すべてのユーザーが自由に活用し得る資源としての未来を探求していく。

[K.M.]



Texts:

IV : 未来という資源


IV : 現在の終り

 

IV : 作者の制作

IV : 未来と未知


 

上記が収録されていた『未来芸術家列伝 IV』(リーフレットA2サイズ)のデータ
・表面 jpg(Google ドライブ)
・裏面 jpg(Google ドライブ)
縮尺によっては文字が鮮明に見えます

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