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未来芸術家列伝 IV : 現在の終わり

 

未来が「まだない」ように、過去は「もうない」。しかしわれわれは過去を「もうない」ものではなく「既にあった」ものとして扱う。思い出の品々、書物、写真、絵画、墓、遺跡、化石……。こうした頼りない痕跡から推測される過去を、変らない事実であるかのように扱うのだ。現在には、そうしたもうないはずの過去が事実としてあふれかえっている。そうであるならば、頼りない徴候から推測される未来も、変わらない事実として扱うことができるはずだ。

 

では、未来を現在に存在させるとはどういうことだろうか? たとえば、ピカソが《アヴィニョンの娘たち》を描くまで、そのような絵の具の組み合わせはなかったが、絵の具や画布といった材料自体はずっと以前からあった。マルクスが『資本論』を書くまでは、そのような文字の組み合わせはなかったが、人々は文字や言語を日々使い続けてきた。地球球体説が普及するまで、丸い地球は知られていなかったが、人類はずっと以前から地球の上で生活してきた。つまり何かを作り出すこととは、まだなかったものを実現させることではなく、既にあるものに新しい捉え方や使用法を見つけ出すことなのだ。

 

現代美術に決定的な影響を与えたマルセル・デュシャンの「レディメイド readymade(既製(品))」とは一体何だったのだろうか?彼はそれを「既に完成したもの(already finished)」と説明する。しかしレディメイドの主眼は、既に完成された「既製品」の用途を無効化することよりも、時間に対するアプローチに置かれていた。それは、完成されたはずのものを再び、終わりのない動的な時間の中に引きずり出す行為でもあったのだ(彼の時間への関心は《モンテカルロ債券》、《埃の栽培》、《L.H.O.O.Q.》/《髭を剃られたL.H.O.O.Q.》、《85歳の時に》(デュシャン58歳時の写真)、《遺作》、「創造的行為」などにも顕著だ)。したがって「既に完成したもの」というデュシャン本人の言い換えは言葉足らずである。それはレディメイドの前提を明かすものの、彼が行なった操作については何も説明しない。それまでも人々の目に晒され続けていた便器を《泉》として捉え直すことは、「既にあったもの」のなかに折りたたまれていた「未来」を浮かび上がらせる行為である。残念ながら今では、レディメイド(《泉》)が制作された1917年はそれ自体「既にあったもの」=過去として神話化され永遠化されつつある。しかし、行為としてのレディメイドには、始まりの瞬間がないように、完成の瞬間もない。それは過去への行為であると同時に未来への行為でもある。つまり、レディメイド=「既にあった」が「まだない」へと反転する。それがデュシャンにとってのレディメイドであったのだ。

 

神話化した「レディメイド readymade」を終わらせるために、それを再び「ハンドメイド handmade」ならぬ「オーダーメイド made to order」へと反転させてみよう。『未来芸術家列伝Ⅳ』では、デュシャンの残したレディメイドを材料として捉え、そこから導かれる完成像を実現する。それは、デュシャンの神話化やバブル化した解釈のゲームに加担する行為ではない。むしろ、そのバブルを剥ぎとり、裸の姿を採寸する。そして身の丈にあった衣服を仕立て、完成(終わり)へ至らせるものである。

 

2007年より予告されてきた『未来芸術家列伝Ⅳ』は予告通り2017年に開催されるはずだ。しかしそれはもっと以前から予言されていたとも言える。ちょうど100年前に起こった2つの事件、帝政ロシアを終わらせ、初の社会主義国を建国した「ロシア革命」と、近代美術を終わらせ、現代美術を打ち立てたマルセル・デュシャンらの《泉》(「リチャード・マット事件」)によって未来は既に定められていた。2017年は、現代美術が終わり、未来芸術家列伝が始まる年となる。

Texts
IV : 未来という資源
IV : 現在の終り
IV : 作者の制作
IV : 未来と未知

上記が収録されていた『未来芸術家列伝 IV』(リーフレットA2サイズ)のデータ
・表面 jpg(Google ドライブ)
・裏面 jpg(Google ドライブ)
縮尺によっては文字が鮮明に見えます

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