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未来芸術家列伝 IV : 作者の制作

 

先行者フランツ・カフカ〔1883-1924〕に託して文学者ホルヘ・ルイス・ボルヘス〔1899-1986〕が語ったところによれば、すべての作者は先行者を創造する。したがって『未来芸術家列伝』のなかに、自らの先行者たる『芸術家列伝』についての記述が見つかったとしても驚くにはあたらない。1550年にジョルジョ・ヴァザーリ〔1511-1574〕によって書かれたこの書物はルネサンス期の133人の芸術家の作品と生涯を記録し、芸術作品を作るエージェントとしての「作者」という概念を強固に打ち立てたことで知られる。しかしながら近年の研究は『芸術家列伝』を書いたとされるヴァザーリこそがでっちあげられた作者であることを明らかにした。とりわけ初版から18年後の1568年に出版された第二版は、「ヴァザーリ」という作者名がいまだ表紙を飾っているものの、少なくとも全体の3割以上がゴーストライターによって書かれていたことが判明している。作者「ヴァザーリ」をこのようにして創造したのは、ヴァザーリのアドヴァイザーとして知られ、第二版の制作プロセスを実質的に統括したヴィンチェンツォ・ボルギーニ〔1515-1580〕である。ヴァザーリとボルギーニは、『列伝』の初版と第二版の合間にあたる1563年に、世界初の美術学校として歴史にその名を刻むアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョの設立に関わっているが、この学校の基本理念としてボルギーニが提示したのは、「美術」は個人に還元されないシステムや方法論として教育可能であるという特異な思想だった。そしてこともあろうかボルギーニはこの反作者主義を広めるためのツールとして、すでにベストセラーとして知られていた『列伝』を利用することを画策し、その再版プロセスに介入したのである。結果として第二版では書籍の性格が大きく変わり、ミケランジェロ〔1475-1564〕の死をその象徴とする作者主義の終焉こそが全体を覆う基調トーンとなる。すなわち『芸術家列伝』とはすでに完成したパラダイムとしての作者主義を葬るために書かれた、いわば「過去芸術家列伝」にほかならなかった。よく知られたロラン・バルト〔1915-1980〕の宣言を遡ること400年、作者の時代は作者の死とともにはじまったのである。
 

とはいえ、作者が死もしくは終焉によってこそ立ち上げられるというカラクリ自体は自明の理である。なぜなら「作品」とはそもそも根本において、誰かによって「完成されたもの」であるからだ。言い換えれば、機能としての「作者」を召喚するのは「誰が作ったのか/作っているのか」ではなく、「誰が作り終えたのか」という問いである(マルセル・デュシャン〔1887-1968〕の「芸術係数」のように、この「完成」の仕事を観客とのあいだで責任分担する発想も、この問いの枠組みのなかでこそ可能になる)。その意味で、「作者」という単位が、「完成された生」を記録する「列伝」という形式によって仮構されたことは当然のなりゆきだった。すなわち、ヴァザーリという名の作者が創造したのは「作品」と「生」を同次元で語る方法であり、そのことで作品を作ったエージェントの人生がそれ自体、過去に完成したものとして「作品化」されたわけである。作者の生ではなく作品の記述に集中せよという手紙をヴァザーリ宛に何通も送るほどこのカラクリを忌み嫌ったボルギーニの操作は、それゆえにねじくれている。彼はヴァザーリのシステムをヴァザーリ自身に折り返してみせる。「作者」の成立が一方で作者の死を条件とするのであれば、他方でそれは作者のでっちあげ(ヴァーチャル化)を加速させていく。言うまでもなく、これは古来より文学が行なってきたことである。文学は作者/語り手の創造からはじまるが、このことは文学において作品という完成された単位が、誰かが「語る」というそのつどの行為の創造から切り離せないこと、つまり文学が「パフォーマンス」であることを意味する。言い換えれば「列伝」という作品は、美術を「文学化」することでそこに「作者」という完成された単位(の制作可能性)を産みつけたのだった。

その後の美術史の基本フォーマットを形作った16世紀におけるこうした変動が、21世紀初頭にわかに注目を浴びるようになった背景には、もちろん同時期に進行していたインターネットの全面的な普及があった。特に2000年代に急速に拡大していったフェイスブックやツイッターなどのソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)は、計算(カウント)可能な人間の単位を「アカウント」に置き換えることで、社会的に流通する 「作者」のヴァーチャル性とそれを背後で制作し続ける不可視のユーザー(たち)というカラクリを技術的に固定した。その結果引き起こされた「作者の作品化」という意識の広まりこそが、たとえば同時代における「パフォーマンス・アート」の流行を支えていたことはいまさら指摘するまでもない。とはいえ、狭義のパフォーマンスが単独の「作者」を自作自演する個人主義の方向にまたもや偏っていったのに対し、SNSなどの技術的環境の自然化に伴って同時多発的に出現したのは、それとは反対ベクトルの、作品とはそもそも単独の作者が作るものではなく、非人間的物体を含めた諸々のエージェントのネットワークによって形成されるものだという見方である。
 

この基本構想を拡張するかたちで、2000年代半ばより二つの理論的立場が前景化する。ひとつは、そもそも「作者」とは観察者=観客との相関関係において想定・想像されるものであり、それゆえ前者を複数化するためにはまず後者の自己イメージを複数化することから始めなければならないと主張する「ディヴィジュアリズム(dividualism)」、つまり分身主義である。幸いにして当時の分子生物学、感染学や思弁哲学はそれまで固有の単位とされてきた自己の身体がそれ自体複数の異なる身体・生物のネットワークによって形成されていることをあきらかにしており、また多重人格障害の一般化やビッグデータの日常化という世相の動きとも相性よく結びついたこの立場は幅広い人気を集めた。
 

それに楯突いたのは、いくら「作者」をネットワークに解体しても、一方ではすべてのエージェントを汲み取ることは不可能であり(観察・記述コストの限界)、他方でそのような膨大なネットワークを個別に処理するだけの演算能力がそもそも人間には備わっていないため(認知コストの限界)、理念的には無限かもしれないネットワークも人間のコミュニケーションにおいては避け難く「固体化=身体化」されてしまうと主張する立場である。すなわちエージェントがいかほどに分散しようとも単にその総体が「作者=身体」として再定位されるだけである。このグループは、まさしく人間固有の認識能力に合わせた「身体化」の代表例であり、ラテン語で「身体」を意味する「corpus」を語源とする「コーポレーション(法人)」という言葉を用いて「コーポレーショニズム(corporationism)」と呼ばれた。そしてその名に違わず「企業」からの潤沢な支援を受け、数こそ少なかったものの大きな影響力を誇った。
 

この両立場のそれなりに生産的な対立が10年ほど続いたのち、2017年になって新たな角度から問題を総合する第三の理論が現われた。その主張によれば、変更を迫られているのは作者概念ではなく作品概念のほうである。「作者」という作品フォーマットが絶え間ないパフォーマンスによってのみ維持されるとすれば、重要なのはプロダクトではなくプロセスである。少なくとも20世紀前半から多くの芸術家によって繰り返されてきた、このいささか古びた主張がこの時期に新たな現実味を帯びたのは、次の一見ささやかな観察によるところが大きかった。すなわち、人々が「コーポレーション=作者」の名をいつしか動詞化して使っていることの発見である。「ツイートする」、「ググる」、あるいは「ユーチューバー」などといった言葉がいつ使われはじめたのか誰もうまく思い出せなかったが、この奇妙な「作品=作者」の「動詞=行為化」が日常会話を埋め尽くすほど自然化しているという事実は誰も否めなかった。この観察をモデル化することで、「ヴァーバリズム(verbarism)」と称された理論は、芸術が創造するのはモノよりもモノを作(り終え)る作者だという考えを論理的に徹底し、「作品」とは知覚から運動にいたるさまざまなスケールにおける行為アルゴリズムを他者に植えつける(別の生=身体において再生・反復可能にする)装置にほかならないという結論に行き着く。「作品=作者」とは知覚されるものではなく、知覚行為を統御する形式(フォーマット)である。すなわちプロセスは絶え間なく続くが、そのプロセスのフォーマット自体はそのつど(原理的には)完成したものとして差し出される。そしてこの第三の理論が最終的に描き出したのは、「自分が『芸術家列伝』の作者だったらどう考えるか」などという、フィクショナルに自身を他者や物の生のなかに置く、ジークムント・フロイト〔1856-1939〕が「転移」と呼んだきわめて文学的なカラクリによって「作者の動詞化」がもっとも顕著に、また日常茶飯事的に、繰り返し演じられていく光景だった。
 

さて、われわれも2017年当時の慣習にならってこの転移のメカニズムの反復に身を委ねるとして、ボルギーニを真似ながら『未来芸術家列伝』に記録されている「作者」に関わる上記の諸立場を『未来芸術家列伝』そのものに折り返してみよう。するとそれは確かに作品として自らの先行者を創造すると言える一方で、「列伝」というフォーマットの採用自体において先行者の規定を強く帯びていることもまた明らかとなる。そもそもヴァザーリ/ボルギーニの教えに従えば、「芸術家列伝」とはどれだけ未来に書かれようと、「過去芸術家列伝」であることを避けられないのだった。そのとき問題は、過去に一人ではなく二人の作者が存在するばかりではなく、その二人が根本的に相容れず、一人を作者としたらもう一人がそうでなくなるという両立不可能性を帯びているため、ネットワーク化=身体化できない関係にあることだ。とすれば、残されているのは第三のヴァーバリズムの立場しかない。そこから、次のような根本的な問いが浮かび上がる。『未来芸術家列伝』は果たしてヴァザられたのか、それともボルギられたのか。つまり、「作者」という単位の終焉を言祝ぐ『未来芸術家列伝』の作者にも「作者」がいた/いる/いることになる、のだろうか。
 

[I.C.]


 

 

Texts

IV : 未来という資源

IV : 現在の終り

IV : 作者の制作

IV : 未来と未知

上記が収録されていた『未来芸術家列伝 IV』(リーフレットA2サイズ)のデータ
・表面 jpg(Google ドライブ)
・裏面 jpg(Google ドライブ)
縮尺によっては文字が鮮明に見えます

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